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劇場空間

元気だして行きまっしょ。 機械も長く使っていると、動きが鈍くなります。油をさして、動きを良くしてあげないと。オリーブのように、豊かな実を育てられるブログにしたいです。

音楽劇「ザ、オダサク」

演劇

 

   

 松竹座で、「ザ、オダサク」という音楽劇を観に行ってきました。

 若い人達がメインの舞台で、期待していなかったけれど、終わってみれば

感激して、楽屋の外で、出演者が出て来るのを待つ人達と一緒に、しばらく、ぼっと

待っていましたが、時間も遅くなるので、「デカダンス、デカダンス」と言うところだけ

覚えてしまった歌を無言で口ずさみながら、岐路に着きました。

 高校生なのか、中学生なのか、女の子達のグループが、学校帰りのカバンを持って、

「ザオダサク」を観に来ていた姿を、終わってから、劇場から出ていく時に、見かけた

のですが、お小遣いをはたいて、チケットを買って来たのだろうと思うと、なぜか、

胸がジーンとします。それも、織田作之助の半生が、引き金になっていたからでしょう。

 http://www.ktv.jp/event/odasaku/

若い人達も多かったのですが、幅広い年齢層の人達がこのミュージカル仕立ての、

青春グラフィティー、「ザ、オダサク」の、主演を演じた、内、博貴、や出演者達の奮闘ぶりを楽しんだよう。

 内、博貴、という人を、私は全く知らなかったのですが、ダンスがすごくうまくて、

 歌の方は、それほどでもないけれど、ミュージカルなら、フアンを魅了するだけの

技量を持っている人で、これからも楽しみな人です。

  私が、この作品で、興味深かったのは、この時代、文化、芸術に飢えていた頃、貧しさが浸透していた頃、結核が、死に病いだった頃、情熱で命の火を燃やし続けて、道半ばにして、無念の死を遂げた、才能ある若者達が多かったのですが、

 その短い人生の間に、随分多くのものをこの世に問い、残していたとくことです。

織田作之助は、三校、今の京都大学を中退していますが、その頃すでに、作家として

作品を世に出しています。

 

 夫婦善哉の、モデルになっている、奥さんと暮らすようになったのも、その頃から。

 夫の成功の陰に、支えた妻有り、というのが、定説ですが、織田作之助も、その一人。

 お芝居では、奥さんは、病を隠して、暮らしの工面から、原稿の手伝いまで、寝る間もなく、夫を支えて、若くして、先にこの世を去ります。

  三校の一年先輩であった、森本薫とは、ライバル意識が互いに強く、また生きる気力にもなっていた。

 森本薫は、東京に出て、文学座に入り、脚本を書き、織田は、大阪にいて、新聞社で働きながら、文筆を続けていましたが、身体への負担を案じた奥さんの勧めで、作家としての人生にかけるようになります。

 森本薫は、文学座で数々の脚本を書き、演出家としても活躍します。彼の代表作は、「女の一生」、其の初演は、空襲警報のなる中、東横映画劇場で。その翌年の1946年になくなります。

舞台では、そのニュースを聞いた、織田作は、自分は書き続ける、まだまだ、生きて、書き続けると、森本の無念を悲しむシーンがあります。

 

 けれど、オダサクは、その翌年に、わずか33歳で、多量の血を吐いて亡くなります。

 東京のバーで、原稿をカウンターで書いている織田作之助。

このバーで、坂口安吾と太宰治との3人が会合を終えて。坂口と太宰は、酒に酔って

いますが、オダサクは、お酒は飲めない。

 

  オダサクが愛した、カフェ、は、丸福。苦いコーヒーが好き。

 お饅頭をそえて食べるのが好きで、それが「夫婦善哉」の善哉。

法善寺横丁にある、「夫婦善哉」は、ゆかりの店ということでしょう。

 自由軒の、まぜカレーも、織田作之助が作ったカレーだそう。

今、私たちは、随分、物が溢れ、欲しいものは、なんでも手の届く所にあって、

健康で長生きすることが、生きる目的のように、なっていて、文化的な生活に恵まれて

いるのに、あの頃の人達の何分の一の時間も、生きていないような気がするのです。

 

 明日をも知れぬ、時代だから、今日を精一杯、命を燃やして生きたのでしょう。

限られた命、限られた時間だから、人間の持てる能力の限りを尽くして、素晴らしい作品を後の世に残していったのでしょう。

 舞台は、最期の場面に、桜の大木の下で、喀血して命を絶える場面。一瞬暗くなって、

オダサクが、亡くなった奥さんの膝に頭を乗せて、なごんでいる明るい画面に変わります。

 坂口安吾の、「満開の桜の下で」という短編を、使っているのでは、?

オダサクが亡くなったのは、実際には一月です。

5月25日からは、東京の新橋演舞場で,上演。