劇場空間

元気だして行きまっしょ。 機械も長く使っていると、動きが鈍くなります。油をさして、動きを良くしてあげないと。オリーブのように、豊かな実を育てられるブログにしたいです。

玉三郎の「海神別荘」

 

 難波パークスで、玉三郎の歌舞伎映画が上映中。

 泉鏡花の作品の中で、玉三郎が代表作だと言っている、「天守物語」「夜叉が池」「海神別荘」の中の、「海神別荘」が16日までの上映なので、思い切って、難波まで出かけた。 梅田には、気楽に行けるのだけど、難波パークスという場所は、

初めてなので、遠い気がしてしたけれど、それに地下鉄の運賃がかかるので、すませることなら、梅田までと、ケチな根性が働いて。

 難波パークスは、難波球場の跡地に出来た、西宮ガーデンズのような、商業施設の複合体になっている。地下鉄の改札出て、歩いても5分もかからず、こんなに便利だったことに驚き。 

歌舞伎映画は特別入場券の2000円なので?プルミエシートの部屋で、朝と昼の2回の上映。

 このシートがすごい。ガーデンズにも、あるのだが、松竹はさらに、もっとゴージャス 。サロンと、トイレ空間がホテルみたい。席はとてもゆったりしていて、隣との間にテーブルがあるので、そこにバッグを置いて、飲み物のトレーを置く場所もあって、と

東宝の上を行く作りになっている。

 2月から上映していたからか、ガラガラの空き状態で、端席を取っていたけれど、真ん中に移動して、首も楽々。

 最初に、玉三郎の作品解説と、舞台の稽古風景や、舞台に上がる玉三郎の美しい衣装姿などが写し出された。

 玉三郎は、鏡花の作品の表現の難しさを語っていた。

専用トイレ

  海神別荘の内容はこうだ。

、財宝と引き替えに、美女が、海の生け贄となって、竜宮に嫁いで来る。海の中に、竜に誘われてやってくる美女を、待ちながら、公子は、博士と問答する。

 

 公子はいう。刑場に引き回される、おさんに、刑罰を与えてると思えない。おさんに刑罰を与えるのなら、牢獄につないで、醜い老婆まで生きながらえさせれば、おさんには刑罰だが、おさんを幸せにしてやっているだけだ。

 おさんのような例は他にあるか、と博士に問うと、歴史の書物を読んで、火破りになった、お七の例が、と言う。公子は、私の好きな女だ、と。

 そこに、美女が到着する。彼女は、自分が死ぬと思っていたのに、こうして元気だと、皆に知らせてあげたい、生きていることを、親に知らせてあげたいという。

 公子は言う。

  そういう心は、不純で傲慢だ。父親は、財宝と引き替えに、娘を売り、めかけと楽しんでいる。お前のことなど心配していない。

 ここにいて、生きて楽しむことだけを考えていればよい。自己満足していればよい。

 美女はどうしても、国に帰って、無事を知らせたいと願い出る。

 公子は、それを赦すが、最早お前は人間の姿ではない、蛇としてしか映らない。

 娘は信じずに、国に戻ると、人間達は、蛇だと恐れて、殺そうとした。

 

海に戻って、なき暮れる娘に腹を立てた公子は、家来に殺せと命ずる。

 縛られた美女は言う。

 殺すのなら、ご自分で刃を向けなさいませ。

 公子が剣を振り上げると、娘は、

 「なんと涼しい目、美しい顔、私は全て忘れました。」

 公子は、剣で、二人の腕から血を取り、共に飲むことで、永遠のちぎりを誓う。

  

 娘は言う。

 ここは極楽でしょうか?

 極楽などではない。極楽には、女はおらぬ。男はおらぬ。

 次の高野聖が楽しみ

  超現実の世界の美意識と魂の真実を見いだそうとした、泉鏡花の世界を

 表現するに、ふさわしい作品だと思う。その表現方法そのものの美学も意識して

作られた作品だとも。

  自己満足ということばを、人間の下世話の観点からは、社会のつまはじきものとして、利己心の強い意味で言われたりするけれど、泉鏡花は、下世和の社会に縛られることなく、

自分の欲望の欲するままに、他人に支配されることなく、自己完結することに美的感覚と美的意識を見いだすことの出来る存在だ。

  おさんや、お七に見る、恋の狂気こそが、人間が夢見る美の頂点であり、人間が社会に毒されない、純粋な美しい姿、その姿のままに、死んでいくことの、法悦は、愛の完結である。愛し合う二人は、永遠に血を流し合い、分け合い、溶け込み、絡み合い、美しいままに、美しく、変質することなく、完結された美しさ、喜びの世界へと誘う。

 極楽などという死者の世界ではない。人間世界を越えた、超現実の世界があり、そこは、永遠に美を享受する場所。

  サロメが、ヨハネの首を皿に抱き、恋の成就にうっとりとする様、エミリーブロンテが、ヒースクリフにエミリーの死体を抱いかせて「決して眠るな。亡霊となって、どこまでも私を追い、呪い続けろ」と叫ばせる言葉に、私達は美を見いだし、自分の空虚の中に、熱いものを吹き込まれる。

 「失楽園」があれほど話題になり、「マディソン郡の橋」に家庭の主婦達や、恋を無くした女達は、憧れを抱いたことだろう。

 しかし、その時だけで、現実の生活から、一歩踏み出すことも出来ない。人の目、家族の目、日日の暮らしに、失っていくもの、朽ち果てていくものの大さに気づかない。

 見えない目を持って、心は躍らず、死んでいるようなもの。

 人間が、心の奥深く、求めて、憧れている真実の世界を、泉鏡花は、妖しく美しく表現している。

  鏡花自身、玉三郎自身が、自分の中に潜んでいる狂気に魅せられ、それをどう美として表現すれば良いのかと、冷静沈着な頭脳で、苦悶の連続なのだろう。

  「平清盛」に出てくる、清盛の友、もののふと呼ばれた、義清が、一夜を共にした女性の心欲しさに、殺してしまおうとした、自分の狂気におののいて、

 出家する。西国に極楽があるから、と西行に。 ジェラシーの恐ろしさ、愛の秘薬は毒を持った花。

 愛に破れた、義清に残されたものは、世捨て人となって、自然の美を追究し、自然を愛して、心の宿を庵にもとめるだけだった。

 泉鏡花は、美女と公子の分け合った血が、地上の草花となって、美しい姿を見せていると書いている。その自然を、西行が愛でる時、西行の恋も、魂の成就となって、西行を愛し、美しい詩を生み出しているのだろう。

生牡蠣と白ワイン

最後に、下世話な話になってしまうけれど、

 海老蔵が、美しく、元気で、素晴らしかった。のびのびとして、たおやかで、溌剌として、あまりにも美しい。

 

 泥水の暴力事件で、長い間、檻につながれ、反省を強いられ、最近の海老蔵には、花がない。

 世間の常識は、美の世界では、非常識。 

 精神病院に入れられて、電気ショックを与えられて、廃人になってしまった、「カッコーの巣の中で」のジャックニコルソン

 とまでは、ほど遠いけれど、狂気をなくしてしまったら、良く見てもらおう、客はこれなら気に入るかな、客は、世間は、

 どうみるかとビクビクしながらの、優等生演技になってしまう。

 「自己満足」と「狂気」が、美を創造する。

ランチの牡蠣のリゾット

 一方で、寂しかったのは、玉三郎の美女だった。

 心の目で見なればならないのだけど、映画の大画面は、大顔で写し出す。

 相手役が、獅童さんなら、美男でもなく、輝きなく、特徴の少ない顔なので、

 玉三郎が美しく映るんだけど。

もっと下世話な話

 チケット半券で、階下のレストラン、「コンボ&オイスター」は、生牡蠣一個とワイン一杯プレゼント。

 980円のリゾットランチと。一杯飲んで、もうちょっと、と、恥ずかしさを押して、この店の会員カード

 を見せて、この券とは併用だめでしょ、と言うと、粋なマスターが、

 もう一杯いれましょうか。

 昼から2杯のワインを飲んで、「こいつは春から演技がいいや」 

 酔ってて、いつもはそこまでは手が出ないのに、サンマルクカフェの、チョコグロまで。

 化粧品の店に電話して、4時半からの無料の美顔術してもらうの待ってて。

 本当に、下世話なお話でした。

 1人で楽しんで、美しく?なって、自己満足、でした。

 

 

 

 脚本を読みたい人に。

  http://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/3244_24408.html