劇場空間

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狂言とオペラ「オテロ」

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試みの斬新さに惹かれて、友人にチケットをお願いした。「オテロ」シュークスピア4大悲劇の一つで、ヴェルディーのオペラ「オテロ」は

傑作だ。それと、日本の、能楽の軽業的、庶民的笑いを持つ狂言とが、そう絡み合っていくのだろうか?

 題目の選択に失敗したのかもしれない。場所の置き換えもまずい。デザイナーも衣装に頭を痛めた結果、狂言のシンプルな衣と違和感だけを際立たせる結果となった。

 前回の「リア王」は良かった、という友人の感想は、題目の選択によるものだろう。黒沢明なら、「オテロ」の背景を変えて、映画化しようなんて考えないだろう。シュークスピアだから、というのでは読みが浅い。

 ヴェルディーは、「オテロ」ならばこそ、7年かけて、オペラの名作に仕立て上げられたのだ。恋の三角関係、恋の終わりは悲劇、単純なストーリー、これからオペラに不可欠な要素で、「オテロ」は心の秘めたる思いを歌にするのに、ピッタリ。旋律の美しさで、観客の感覚を揺さぶる。

 あわびと作りのコラボレーション

 大阪の能楽堂で、上演された、昨夜の「オテロ」は、背後に松を描いたヒノキの舞台、照明は全く使わず、終始明るく、明瞭な世界で、猿楽の歌舞伎化としても随分無理がある。

私が、あえて、演出させてもらえるとしたら、ソプラノ歌手のデズデーモナには、終始白のシンプルなドレス、オテロは、黒のやはりシンプルな布をはおっただけのようなもの。他の二人の歌手にも、黄色とピンクで同じ形のものを。色と軽やかな自然の肉体の動きを頼りにして、一種幻覚的な存在とする。狂言師達は、狂言衣裳のままで。これも色で分ける。せりふは、歌舞伎役者ぶらないで、お能の歌いを歌うように、しゃべらせる。イヤーゴだけは猿楽としての演技、語り口もそのスタイルで。そうすることで、立て役者であることを際立たせる。オペラとのコラボレーションであるから。ソプラノに歌わせながら、狂言役者には、追いかけるようなセリフのオペラ化。オペラ歌手達には、能楽のお面をつけさせる。せりふの音量はもっとおとして、幽玄の世界として作ると、足の運び、しなやかさと動きの機敏さ(これから猿楽としての特徴)がもっと際立つ。昨夜の舞台では、トランペットと太鼓のコラボレーションで、登場人物が出てくる以前はいいけれど、出演者の声高なセリフまわし、ソプラノの声とあっていない。

 イヤーゴを演じた人は、終始猿楽スタイルを貫いて、姿かたちを決め、動きの素早さ、板を滑るなめらかさ、声使いといい、猿楽として違和感なく、際立ってよく見えた。つまりは舞台に、あっていたからだ。

 演出するとしたら、いくつかの可能性はあるものの、「オテロ」という選択はまずかった。